2012年7月2日月曜日

高田渡さん宅で泊めていただいたこと

ここ数年ときどき夜中に高田渡さんの歌が聞きたくなる。レコードもCDも持っていないので毎度Youtubeの映像を探して見ている。昨日もそんな感じで毎度のごとく「ブラザー軒」や「生活の柄」などの名曲を聞き、いつもどおり感動に浸った。こんなに心に響く日本語の歌を優しく力強くユーモアたっぷりに唄える人はいないなぁと。昔のことを思い出したのでメモしておく。
私が大学を卒業をした頃はバブル経済の全盛期で私のように大学を卒業して海外を放浪している者でも簡単に就職できてしまう時代だった。内定をもらったあと約3ヶ月インド放浪の旅に行き、帰ってきて会社に行くまでの2ヶ月ぐらいの間にたまたま兄の作成する映画撮影の手伝いのようなことをやっていた。(たしか91年2〜3月頃。)吉祥寺を舞台にし、ほとんど素人だけで作った映画だったが、兄が吉祥寺の飲み屋でよく見かける高田渡さんに交渉して出演してもらうことができた。地味な白黒映画だったのでほとんど世に知られることはなかったが、渡さんは気に入ってくれ本人のライブのMCでもジョークたっぷりに映画の紹介してくれたりした。主人公の父の役で映画の途中で死んでしまう設定だったが、照れながらも真剣に演技をして本当に実に良い味を出していた。
映画の撮影が一段落して編集に入る前だったと思うが、一度渡さん宅に兄弟二人で泊めてもらったことがあった。吉祥寺ののろで飲んで盛り上がってしまい、最終電車も出てしまったので渡さんが「うちに来たら良い。」と言ってくださり三鷹にあるおうちにうかがうことになった。(Youtubeでなぎら健壱氏が高田渡さん宅に行って一緒に歌っている映像があったが、同じアパートだと思う。)記憶がおぼろげだが、3人で夜更けまで飲み井の頭公園で散歩をしたりして三鷹のアパートについたのは夜中の3時前ぐらいだったと思う。私は途中で力尽きて寝てしまったが、完全にできあがってしまっている渡さんは家でも焼酎を飲みギターを弾いたり(ギターも本当にうまい)バンジョーを弾いたり、と全く眠たそうな素振りも見せず、そのまま朝が来て焼酎の牛乳割りを飲んでいるのを見た時にはさすがに驚いた。酔いが回ってくると、「そうはイカのキン☓☓」とか「固形物を食べなくてもちゃんと☓☓☓が出るんだよ」とかシモネタばかりだったのだが。。
そういう渡さんもその後はテレビCMに出たり、リバイバルブームがあったり、体調を崩され入院したり、いろいろとあり早くお亡くなりになったが、昨今の原発問題や経済問題に対する日本のイカれてしまった状況をもしも高田渡さんが生きていたらどのように嘆いたかと深く思う今日この頃である。

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