2012年7月27日金曜日

owari no kisetsu: レイ・ハラカミ一周忌

レイ・ハラカミ氏が突然お亡くなりになって今日で1年になる。
 生前に氏の音楽を熱心に聞いていたわけではないが、yanokamiで初めて聞いた時に受けた時のショックは大きかった。お亡くなりになった後に数枚のアルバムを買って聞き、あの時にうけたショックが何だったのかと考え、氏の音楽を聞くたびにやはり同じ衝動が続いているのでここに書き綴りたい。
 テクノや電子音楽についてはほとんど知識がなく、またアンビエント音楽とか前衛的な音楽についてもほぼ全く知識がないので、彼の音楽がどこまでがオリジナルなのか全くわからない。だが、個人的な感想としては、氏の音楽の印象は以下のとおりある。

1.リズムにワクがない
 氏の音楽はまずリズムを捉えるワクが異なるように思う。私が従来主に聞いてきた音楽であるブルース、R&Bからソウル・ミュージック、ロックやジャズ、ブラジル音楽など多種多様な音楽(うた)には基本的にリズムを形作る要素がどこか固定化されている(ドラム、ベース、リズム・ギターなど)のだが、氏の音楽の場合はそこに全くワクがない。これは氏がソロで作品を作っていることによるものかもしれないが、逆に私の聞いてきた音楽ではソロの場合に限ってリズムのワクがほとんど固定化されてしまっている傾向があった。また、リズムのワクがないにもかかわらず、音楽の流れを作るリズムはキープされており、奇をてらった前衛音楽のような音楽をぶつ切りにしてしまうこともない。だから、集中して音楽を聞く場合も「ながら聞き」のときでも常に心地よいように感じることができる。
2.メロディとフィルの振れ幅が大きい
 氏の音色は独特のクスミを帯びた陰影を感じさせるもので、私の大好きなジム・ホールのギターの音色を思い出させる。マッチに灯った火のように境界線が曖昧なボヤッとした感覚と煌めく炎のようなキラキラとした感覚の両方を感じさせる。また、メロディやフィルは時にオモチャのようなチープさを散りばめつつ、根幹には浮遊感という衣をまとった芯の強さ(時には厭世的だったりシニカルだったりもする)を持っている。つまり、リズムの上にのっかる部分はカラフルで巨大な振り子のように常に安定感を保ちつつ常に変化し続けるのである。

 つまるところ私にとってレイ・ハラカミ氏の音楽は、モノクロ映画のような既成の音楽のワクを完全に取っ払い、異なる次元で奏でられる未来の音楽を覗き見せてくれるタイムマシンのように感じる。そういう意味ではレイ・ハラカミは時を超越してしまったのだから1回忌なんてどうでもいいことか。

2012年7月24日火曜日

制約を楽しもう

人間というものはセルラーオートマトンみたいなものである。あるルールに従って物質が取り込まれ、化学的に変化し、排出される。あるルールに従って移動する。それ以上でもそれ以下でもない。コンウェイのライフゲームより少しルールが難しいかもしれないが。
 また、人間はなんだかんだ言ってもルールが好きな生物で、OSIのネットワーク階層モデルよろしく物質のルールの上に生物学的なルールや道徳的ルールや社会規範的ルールや親しい人間観の暗黙のルールのようなものまで作ってしまっている。
 なんだかちっぽけなセルラーオートマトンの上で、ちっぽけなルールを組み上げているだけなんだから、あまり物事がうまくいかないからといって真剣に悩む必要はないように思う。
 色々な制約を楽しもう。

・給料という制約
・小遣いという制約
・歳をとって物忘れが多くなったという制約
・子育てという制約
・何を食べてもあまり美味しくないという制約
・なにか最近目がよく見えないという制約
・ギターが上手に弾けないし、練習する時間もないという制約
・世の中のためになっている気がしないという制約
・牛丼屋が近所にないという制約
・海外に行きたいけど最近機会がないという制約
・忌野清志郎や高田渡が既にこの世にいないという制約
・肩と腰が痛いという制約
・プログラム言語を覚えてもすぐに忘れるという制約
・嫁さんに優しく接しなきゃと思う制約
・人一倍よく眠る家系だという制約
・ビールが飲みたいが、日常的に飲めるのは第三のビールだという制約

2012年7月21日土曜日

子育て日記:1号は空手初昇級、2号は会話可能に

ボーズ1号(5歳2ヶ月)は1年半ほど前から空手に通っていたが、先日ようやく昇給してオレンジ帯となった。幼稚園に入る前から通わせていたとはいえ、なかなか昇給しないので気をもんでいたがついに念願の白帯脱出を達成。昇級試験そのものは礼儀や簡単な型と組手だけなので比較的容易そうだったが、これまでの1年半は長かった。最初の1年は完全に遊びに行っているつもりで、本人がまともに空手をやることがわかりだしたのが最近のことでそれから少しずつ真面目に取り組むようになってきた。スロースターターだが、まずは1歩踏み出した感じである。
ボーズ2号(2歳1ヶ月)は目覚しく言葉を覚える時期になってきた。1ヶ月前は自分の希望を伝えるだけだったのが、今週は会話になりはじめた。昨日の夕食後のデザートタイムの嫁さんとの会話。
2号 :ねえ。どうしてオカアシャンのカステラは2号のより大きいの?
嫁さん:それはね。2号がさっきヨーグルトを飲んだからよ。
2号 :オカアシャンはビールを飲んだでしょう?
まともすぎる会話に隣の部屋で聞いていた僕は笑ってしまった。2号が論理的に言い負かすようになる日も近いのだろうか。頼もしい限りである。

吉田武著「素数夜曲-女王陛下のLISP-」購入

以前から相当気になっていた吉田武の数学書の新刊が出ていたのでついに買ってしまいました。約900頁の分厚い高い本(厚さの割には安いけど)です。
大学時代から図書館でよく読んでいたダグラス・ホフスタッター著「ゲーデル・エッシャー・バッハ」の現代版といった印象で、本書の後半はLISP(方言のSchemeの実装Gauche)を使って実際にコンピュータを使って実験できるようになっています。本を読む時間がないとか、分厚い本なので本棚が重みに耐えられないとか、お金がないとか、そんなことは関係なく衝動的に神の手によって買わされたようなものです。
 さっと見た感じは色々なエピソードが散りばめられており、ある程度の数学知識と関数型言語の知識があれば最初から読まなくても途中から部分的に読んでも十分に楽しめそうな内容です。そういう意味では結城浩の「数学ガール」シリーズとは違う読み方ができるでしょう。
 よし、夏休みの宿題として8月末までに読むぞ!

村上春樹著「アフターダーク」を読んだ。夜明け前。

2004年9月発表の約三百頁の長編小説。ある日の深夜から始発が出るまでの間に都会の真ん中で過ごす人々を描いたもの。
この作品はその後の「海辺のカフカ」や「1Q84」など逆順に読んだので「アンダーグラウンド」後のスタイルを模索する過渡期的な作品という印象を受けた。タイトルからしてジャズの曲名を使用しており、従来の村上春樹の立ち位置から始めて、少しずつダークなものや説明のつかない奇妙なことを散りばめて、最終的には薄っすらとした明るさのようなものを匂わせて終わっている。「アフターダーク」の意味が、深夜と早朝の2重のことを指していることが最後になってわかる。
 終盤の明け方のストーリー展開部分は無理に明るい方向にもっていっているような印象もあり、そういう意味でも「海辺のカフカ」への途中ステップだと考える。また、2005年発表の「東京奇譚集」と同じくこの頃の村上作品は安っぽく奇妙なことや偶然的なことを模索していた時期ではないかと思った。

2012年7月18日水曜日

人を率いる者の心得(備忘録)

私が社会人になったばかりの頃の配属先のA部長は豪快な人だった。九州男児で、まさに侍のごとく、豪快に仕事をし豪快に酒を飲む人だった。汎用コンピュータの黎明期とも呼べる時代から常にプロジェクトの現場で過ごしてきていた。私が入社してからは、とにかく激しく燃え盛る現場を責任者として点々としている印象しか記憶にない。
 A部長は数年前に色々な無理がたたって退職することもなく鬼籍に入られたが、残された言葉の中で特に印象深かったのはプロジェクトリーダーの心得七箇条である。以下に個人的な備忘録として書くが、内容としては業界や組織の規模に関係なく人を率いる人にとって普遍的なものなので誰かの参考になるかもしれない。
  1. 危機感の共有
  2. 現場現物主義の徹底
  3. 少数精鋭
  4. 自己管理
  5. 数字への執着
  6. 攻めの姿勢
  7. 優しさと思いやり

2012年7月12日木曜日

ベーシスト松永孝義さん死去

本日、ベーシストの松永孝義さんが亡くなりました。享年54。
松永さんといえば私が大学生の頃にMute Beatのベーシストとして知りました。Mute Beatはトランペットの小玉さんを中心としたレゲエバンドでロック少年もかなり注目をしていた個性的なバンドでした。シンプルなインストゥルメンタル音楽の中に美しさと強烈なメッセージがあり、そのサウンドの最底辺にヘビー級の松永さんのベースが鳴っていました。神戸のライブハウスに見に行った時もジャージ姿でベースを演奏する求道者のような松永さんがとても印象的でした。その後、私の趣味はブルースの方に向かってしまったので松永さんのベースをあまり聞く機会がありませんでしたが、ずっと気になる存在ではありました。(今日まで知りませんでしたが「タカダワタル的」に出ていたそうですね。)合掌。

PowerShell+Google Mapで旅行ルート地図を作成

PowerShell覚え書き

背景

先日昔行ったインド旅行のことを書いていたらついでに地図も作りたくなりました。

お題

場所名のリストからGoogle Static Mapを使用して、旅行ルート地図を作成する。

$route=@"
place,country
ニューデリー,インド
アーグラー,インド
ジャイプル,インド
ウダイプル,インド
ボンベイ,インド
ゴア,インド
パナジ,インド
マンガロール,インド
コチン,インド
カニャークマリ,インド
トリバンドラム,インド
マドライ,インド
マドラス,インド
カルカッタ,インド
ダージリン,インド
カトマンズ,ネパール
ポカラ,ネパール
ヴァラナシ,インド
ニューデリー,インド
"@

function address2latlng($address)
{
    $encoded_address=[System.Uri]::EscapeDataString($address)
    $google_geocode_api_uri="http://maps.googleapis.com/maps/api/geocode/xml?address="+
                            $encoded_address+"&sensor=false&language=ja"

    $enc = [System.Text.Encoding]::GetEncoding("utf-8")
    $bytes=(New-Object System.Net.WebClient).DownloadData($google_geocode_api_uri)
    $xml=[XML]$enc.getString($bytes)
    $xml.GeocodeResponse.result|
        %{ @{ lat=$_.geometry.location.lat;lng=$_.geometry.location.lng;address=$_.formatted_address} }
}

function browse-url($uri)
{
    $ie = new-object -com internetexplorer.application
    $ie.navigate($url)

    while($ie.ReadyState -ne 4){}
    $ie.visible = $true    
}

function get-label($num)
{
    #google Static Mapsではラベルは1ケタの英数字のみ
    $a = [char[]](([int][char]'0')..([int][char]'9'))
    $a += [char[]](([int][char]'A')..([int][char]'Z'))
    $a[$num % $a.length]
}

$route|
    convertFrom-csv|
    % {
        $ad = $_.place + "," + $_.country
        address2latlng $ad
        sleep -milliseconds 200 #アクセスが集中すると緯度経度が取得できないため
    }|
    % -begin {
        $pc=0
        $url="http://maps.google.com/maps/api/staticmap?size=1024x1024"
        $markers=""
        $path="&path=color:black|weight:3"
    }`
    {
        $pc++
        [char]$label=get-label $pc #場所番号からラベルを作成
        #マーカー設定
        $markers +="&markers=size:mid|label:" +$label + "|"+ $_.lat + "," + $_.lng
        #パス設定
        $path += "|" + $_.lat + "," + $_.lng
        #ラベルと地名出力
        $label + ":" +$_.address
    }`
    -end {
        $url += $markers + $path + "&sensor=false"
        browse-url $url
    }



結果

インド一周旅行(1990/12-1991/2)

1:インド デリー ニューデリー
2:インド ウッタル・プラデーシュ アーグラ
3:インド ラージャスターン ジャイプル
4:インド ラージャスターン ウダイプル
5:インド マハーラーシュトラ ムンバイ CritiCare Hospital Multispeciality Hospital & Research Centre
6:インド マハーラーシュトラ ムンバイ
7:インド ゴア
8:インド ゴア パナジ
9:インド カルナータカ マンガロール
A:インド ケーララ コーチン
B:インド タミル・ナードゥ カンニヤークマリ
C:インド ケーララ ティルヴァナンタプラム
D:インド 〒625022 タミル・ナードゥ マドゥライ・エアポート・ターミナル (IXM)
E:インド タミル・ナードゥ チェンナイ
F:インド 西ベンガル コルカタ
G:インド 西ベンガル ダージリン
H:ネパール 〒44600 カトマンズ
I:ネパール 〒33700 ポカラ
J:インド ウッタル・プラデーシュ ワーラーナシー
K:インド デリー ニューデリー



2012年7月10日火曜日

インド一周(1990/12/初旬-1991/2/中旬)

記憶の断片

テーマ

私は物忘れの激しい家系でもあるし、歳も歳なので昔のことは加速的に忘れていく。忘れる前に覚えていることを少しメモする。人さまに見せることではないかもしれないが、ひょんなことから興味を持つ人が将来出てくるかもしれないのでここに書く。
今回は昔行ったインド一周旅行(ネパール含む)のルートを書く。

時期

1990年12月初旬〜1991年2月中旬の約2ヶ月半。当時私は23歳。

ルート(時計と逆周りルート)

ニューデリー:エアインディアで夜中に着いて明くる朝起きたら道端に牛がいた。
→アーグラー:ジョンレノンが亡くなってちょうど10年だった。ニューデリーから乗った電車で強引に荷物を盗まれかけた記憶がある。
→ジャイプル:猛烈な下痢に襲われ駅のリタイアリングルームで3日ほど寝ていた。となりのインド人にタオルを盗まれてなぜか激怒した。
→ウダイプル:のんびりしていた記憶あり。
→ボンベイ:バックマージン目当てのホテルの客引きに激怒した。乞食多し。後ろから近づいてくる人は信用しないが、前からやってくる人を無条件に信じることにした。
→ゴア:90年のクリスマスは(アンジュナ?カラングート?)ビーチでパーティーに参加。これが後にゴアトランスと呼ばれていたとはつゆ知らず。アッパー系の音楽で異様な踊りをする西洋人に圧倒された。
→パナジ:運悪くキリスト教の街のクリスマス期間のためホテルもリタイアリングルームも見つからず街で声をかけられたインド人の民家に宿泊。ぼられた。日本人の一人旅の青年と同行。
→マンガロール:同じく日本人青年の同行して1泊。何もない街だから久しぶりにちゃんと眠れた。
→コチン?:違ったかな?怪しい。ケーララ州だったような。
→カニャークマリ:91年の初日の出を拝む。日本人多し。初日の出ツアーらしき日本人の団体はちょっと異様だった。ニューエイジ系だったかな。
→(トリバンドラム)コーバラムビーチ:なにか楽しかった記憶がある。こじんまりしたキレイなビーチでインド人たちがいなくて、日本人の若者や中年のカップルなど感じのよい人たちとの出会いがあった。なぜか帰国後すぐに梅田のレコード屋でばったりあった人もいたなぁ。そういえば南インドでは同じパターンで移動している日本人が多かった気がする。そうだ。日本から持っていった村上龍の「海の向こうで戦争が始まる」を読んでいたが、まさに湾岸戦争開始かその直前だったので感慨深かった記憶がある。
→マドライ:南インドの仏教寺院はインパクトがあった。
→マドラス:南インドのカレーは美味しかった。
→カルカッタ:マドラスからの列車は2泊3日だった。ボロボロになってサダルストリートにたどり着いた。蔵前仁一の本の世界が本当にそこにあった。大衆食堂で食べる普通の料理が美味しいことに気がついた。これが最大の収穫か。
→ダージリン:チベット文化というかチベット料理うまし。急激な気候の変化に耐えられず、けっこうきつい喘息にかかった。一人でホテルでいるだけでもつらかった。
ネパール国境の町:地名はなんだったっけ。たしかダージリンかシリグリからネパールのカトマンズまでの通しのバスチケットを買って、途中一泊が国境の街の最悪に汚いホテルだった。部屋に入ってあまりの汚さに驚き、蚊取り線香をつけたら狭い部屋の床に層になるぐらい(おそらく数百匹の)蚊が死んでもっと驚いた。汚すぎて眠れなかったのは後にも先にもこのホテルぐらい。サダルの安宿が高級ホテルに見えるレベル。
→カトマンズ:インド人不信からの開放の地。緊張感が途切れて逆に散財するぐらい。ボーダナートに自転車で行った。なぜか日本人の女性と一緒だったけど、女性とは縁がないはずなのに誰だったっけ?ネパールのダルバーツもうまかった。
ポカラ:景色最高。気候最高。ヒマラヤを見ながらジャーマンベーカリーでクロワッサンを食べた。神を信じたことはないが、ヒマラヤにはなにか絶対的な存在を認めざるを得ない迫力となにかに守られているような安らぎを感じた。その後の人生でもポカラ以外でそういう体験はない。
ヴァラナシ:一気にインドの喧騒の真っ只中にダイビング。客引き、野良動物、極悪インド人、普通のインド人、観光インド人、外国人、とにかく人だらけ生物だらけ。ガンガーには死体もあるし、一種の修行のような街とも言えた。でも、意外と楽しめた。ネパールで骨休めをしていたからか、旅の終盤だからかわからないけど、少し客観的に楽しんでいた気がする。バングラッシーを飲んでも効き目なしだった。相性の問題か。
ニューデリー:ふりだしの街。オールドデリーに行ってスパイスを買った。帰国前にルピーをすべて使い果たしたのに、飛行機が突然キャンセルされ急遽ホテルを延泊したが、お金がなくてボールペンと小型電卓を売りに行った。なぜか私は機嫌が悪く、メインバザールにあるホテルの屋上から下に向かって人参を投げていた。なんで怒ってたんだろうか。たぶん最後にやっぱり悪徳インド人にだまされたんだろうな。でも、人参はどこで入手したんだろう。謎だ。

1:インド デリー ニューデリー
2:インド ウッタル・プラデーシュ アーグラ
3:インド ラージャスターン ジャイプル
4:インド ラージャスターン ウダイプル
5:インド マハーラーシュトラ ムンバイ
6:インド マハーラーシュトラ ムンバイ
7:インド ゴア
8:インド ゴア パナジ
9:インド カルナータカ マンガロール
A:インド ケーララ コーチン
B:インド タミル・ナードゥ カンニヤークマリ
C:インド ケーララ ティルヴァナンタプラム
D:インド  タミル・ナードゥ マドゥライ
E:インド タミル・ナードゥ チェンナイ
F:インド 西ベンガル コルカタ
G:インド 西ベンガル ダージリン
H:ネパール  カトマンズ
I:ネパール  ポカラ
J:インド ウッタル・プラデーシュ ワーラーナシー
K:インド デリー ニューデリー

2012年7月2日月曜日

高田渡さん宅で泊めていただいたこと

ここ数年ときどき夜中に高田渡さんの歌が聞きたくなる。レコードもCDも持っていないので毎度Youtubeの映像を探して見ている。昨日もそんな感じで毎度のごとく「ブラザー軒」や「生活の柄」などの名曲を聞き、いつもどおり感動に浸った。こんなに心に響く日本語の歌を優しく力強くユーモアたっぷりに唄える人はいないなぁと。昔のことを思い出したのでメモしておく。
私が大学を卒業をした頃はバブル経済の全盛期で私のように大学を卒業して海外を放浪している者でも簡単に就職できてしまう時代だった。内定をもらったあと約3ヶ月インド放浪の旅に行き、帰ってきて会社に行くまでの2ヶ月ぐらいの間にたまたま兄の作成する映画撮影の手伝いのようなことをやっていた。(たしか91年2〜3月頃。)吉祥寺を舞台にし、ほとんど素人だけで作った映画だったが、兄が吉祥寺の飲み屋でよく見かける高田渡さんに交渉して出演してもらうことができた。地味な白黒映画だったのでほとんど世に知られることはなかったが、渡さんは気に入ってくれ本人のライブのMCでもジョークたっぷりに映画の紹介してくれたりした。主人公の父の役で映画の途中で死んでしまう設定だったが、照れながらも真剣に演技をして本当に実に良い味を出していた。
映画の撮影が一段落して編集に入る前だったと思うが、一度渡さん宅に兄弟二人で泊めてもらったことがあった。吉祥寺ののろで飲んで盛り上がってしまい、最終電車も出てしまったので渡さんが「うちに来たら良い。」と言ってくださり三鷹にあるおうちにうかがうことになった。(Youtubeでなぎら健壱氏が高田渡さん宅に行って一緒に歌っている映像があったが、同じアパートだと思う。)記憶がおぼろげだが、3人で夜更けまで飲み井の頭公園で散歩をしたりして三鷹のアパートについたのは夜中の3時前ぐらいだったと思う。私は途中で力尽きて寝てしまったが、完全にできあがってしまっている渡さんは家でも焼酎を飲みギターを弾いたり(ギターも本当にうまい)バンジョーを弾いたり、と全く眠たそうな素振りも見せず、そのまま朝が来て焼酎の牛乳割りを飲んでいるのを見た時にはさすがに驚いた。酔いが回ってくると、「そうはイカのキン☓☓」とか「固形物を食べなくてもちゃんと☓☓☓が出るんだよ」とかシモネタばかりだったのだが。。
そういう渡さんもその後はテレビCMに出たり、リバイバルブームがあったり、体調を崩され入院したり、いろいろとあり早くお亡くなりになったが、昨今の原発問題や経済問題に対する日本のイカれてしまった状況をもしも高田渡さんが生きていたらどのように嘆いたかと深く思う今日この頃である。