自然言語のド素人が考えてみた
背景
shiroさんのブログを読んで、何年か前に中国語を学んだ時に引っかかっていた日本語での過去形とは何を意味するのか改めて考えてみました。自然言語については体系だった学術研究はされているでしょうが、私は完全に門外漢なので素人なりに考えてみたことを書きとめておきます。過去形に関する個人的な疑問点
中国語の基礎で「了(le)」という表現を学んだ際に以下のような2通りの使われ方があると教科書にありました。(詳しくは、動詞の直後の場合と文末の場合で異なったり、意外性のニュアンスがあったりしますが、詳細は忘れました…というかサバイバルのための勉強だったので細かく覚えているはずがない。)実際にいくつかの前者の例文があったのですが、不思議なことにそれらの例文を日本語に訳すといわゆる過去形になってしまうものがかなりあることに気が付きました。例えば日本語に訳すとこんな例文です。
「明日の朝、雨が降ったらタクシーで病院に行こう。」
「結局あの服は買わないことにした。」
「トイレットペーパーがなくなった。」確かにこれらの場合は現在や未来のことを日本語でも「過去形」で表現しています。はて、どうしてだろうと思い始めたのがかれこれ8年前です。
「よろしかったでしょうか?」に対する世間の批判
自然言語は現実の世界で使用されている限り変化し続けるものなのですが、共通に使われる言語であるが故に急激に使用頻度が増えてしまった表現については批判的な意見が出てくるのが面白いところです。「日本語よ、お前も苦労してるな」と言ってあげたいぐらいに集団的アレルギー反応を起こすこともあります。(コンピュータ言語でもはやりのフレーズとかありそうですね。)数年前にコンビニ店員等によく使われるようになり、その後世の中の批判を浴び少しずつ頻度が減ってきている感がある「よろしかったでしょうか?」(例:お箸、一膳で〜。)という表現があります。批判された理由はこんな感じです。
仮説
仮にですが、日本語の過去形表現も中国語と同じく、元来「状態の変化」を含んでいると考えても良いように思います。そうすれば、中国語の「了」と日本語の関係も素直に理解できるし、コンビニのでの「よろしかったでしょうか」も「何も購入していない → 購入する(お金を払うことで商品の所有権を得る)」の状態変化として理解できます。上記の幾つかではこの仮説が問題なさそうに思います。また、そのニュアンスを加えることによって話す側には「(状態変化を理解していることを相手に示すことで)丁寧に話している」意味を追加しているというのが最近のトレンドとなりつつあると。とりあえず、現時点ではそう仮定しておき今後また思い出したら検証したいと思います。-------
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